三菱重工


















1: 帰って来た仕事コナカッタ元声優 φ ★ 2013/08/08(木) 19:13:09.28 ID:???
あの時、一緒に名古屋の軍需工場にいた朝鮮の少女たちは、
80歳を超えるハルモニ(おばあちゃん)になった。強制労働を、わびてほしい。

戦時中、三菱重工業の工場に動員された元朝鮮女子勤労挺身(ていしん)隊員の同僚だった
村松寿人さん(83)は今春、戦後生まれの今の社長に手紙をしたためた。
「道理にかなった解決策をはかることこそ巨大企業の矜持(きょうじ)」。
70年近く前に彼女たちの悲しげな表情を目の当たりにした元「三菱マン」の願いだ。

村松さんは1944年に、三菱重工名古屋航空機製作所に養成工として入った。まだ14歳。
日本を代表する「三菱」で働けることが誇らしかった。だが、工場は44年12月に東南海地震と米軍の空襲に見舞われ、全壊した。
地震で57人が亡くなり、挺身隊の少女も犠牲になったが、報道管制で被害は世に伝わらなかった。

合板会社に勤めていた80年代、地震被害の実態を調べていた高校教員らと出会い、
強制労働の調査に協力することになった。見聞きした事実をありのままに語った。

工場では朝鮮人の少女が300人働いていた。「日本で女学校へ通わせてやる」。だまされたり、
脅されたりして連れて来られた子もいたと聞いた。12歳のあどけない顔もあった。
少女たちは休み時間に無言でたたずんでいた。四つ下の自身の妹は、空襲を避けて疎開している。
同世代なのに置かれた立場は、あまりに違う。「ひどい仕打ちだ」と思った。

戦後の韓国で「勤労挺身隊」は「慰安婦」と混同された。今も差別の対象となり、体験を語ることは難しい。
戦後50年以上が過ぎてから、ハルモニたちは掘り起こされた史実を基に、日本で三菱重工を訴えた。

強制連行は事実と認められたが、敗訴だった。日韓両政府が結んだ65年の「日韓請求権協定」で、
韓国国民が日本に賠償を求める権利は放棄されたという法律論による門前払いだった。
だが、韓国の最高裁は昨年5月、権利は消滅していないと判断した。ハルモニたちは昨年10月、韓国・光州で裁判を起こす。

村松さんは三菱重工が韓国の市民運動家たちに「戦犯企業」と名指しされていることを、直視してほしいと思った。
3日かけて社長への手紙を書いた。返事はなかったが、韓国の新聞で大きく紹介された。
「日本人は悪い人ばかりというイメージが払拭(ふっしょく)され、友好につながる」。韓国ではそんな声も聞かれる。

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